国泰寺は山号を円福山といいます。その昔、平泉寺末南教坊と称しました。南教坊は焼失しましたが、その跡地に延宝六年(1678)霊潭元洪が住持、元禄三年(1690)幕府から寺号の免許があり、円福山国泰寺と称することになりました。開基霊潭和尚は黄檗二世木菴の孫弟子にあたります。寺は旧勝山城の南西、裏鬼門の鎮えに位置し、江戸時代を通して勝山藩主小笠原公の菩提寺の一つとして庇護をうけ、住職隠居地を下賜されるなど、特段の恩恵を被りました。

明治二十九年(1896)勝山町の大火により本堂以下建物をすべて焼失しましたが、十二世源道智孝が本堂を再興し、中興の祖となりました。源道和尚が赴任したとき、あたり一面は焼け野原、そんななか御詠歌を唱えて布教し、大師堂を建て本堂を普請したと伝え聞いています。大師堂と本堂は現在に至るまで存続しています。

平成元年(1989)坐禅堂を含む研修道場が完成しました。次代をになう健全な青少年の育成を願い、坐禅研修などの活動を行っています。